ドキュメントJ『⽀え合い ~中国残留邦⼈と介護施設』

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2021-02-13 18:04 UTC
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ドキュメントJ『⽀え合い ~中国残留邦⼈と介護施設』 BS-TBS 2021年2月12日(金)午前10:00~11:00 兵庫県尼崎市の高齢者介護施設「三和之家」。昨年1月に開業したこの施設は、田山幸雄さん、華栄さん夫妻が営みます。生まれつき脊椎カリエスの障害がある華栄さんは、中国・北京市の障害福祉課で働いていました。1992年に来日し、日中障害者交流の仕事に取り組んでいます。その過程で、中国残留孤児が高齢化し、言葉や文化の壁で日本の介護施設に馴染めないケースを知りました。2005年に幸雄さんと結婚。骨を埋めるつもりで、中国残留孤児たちが通いやすい高齢者施設を開くことに。中国語ができる残留孤児2世の介護員も配置しました。 しかし、コロナ禍で利用者は減少。最大200万円支給される持続化給付金は、前年の売上げ実績が必要で当初は適用外。6月末に支給対象は拡大されましたが、支給額を計算してみると29万円で、1ヶ月の家賃30万円も賄えません。開業費用1600万円の返済が重くのしかかります。しかし、利用者が少なくても施設を開け続け、1食200円と格安で昼食提供をします。 施設に通う宮島満子さんは、1945年8月の終戦時には、中国・旧満州にいました。国策だった満蒙開拓団として、長野県から家族11人で渡って6年。当時9歳だった宮島さんは、ソ連軍の侵攻で逃避行を続けましたが途中、父は捕虜として焼き殺され、赤ん坊だった弟は母の乳が出なくなり餓死。行き着いた奉天の収容所で飢えと寒さの厳しい難民生活の末、両親と兄弟姉妹の8人を亡くし、中国人養父母にもらわれ、2人の兄たちとも生き別れました。中国の学校では「小日本鬼子」と苛められ、通学できなくなりました。19歳で結婚、4人の子供に恵まれ1985年、50歳で日本に永住帰国を果たします。現在1人で暮らす宮島さんは「ここは過酷な人生を送った私にとって、憧れた祖国で楽しく過ごす、最後の場所」だといいます。 高齢化した中国残留孤児たちとそれを支える人たちの声を聞きました。 【制作】MBS毎日放送

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